◎12月30日〜1月6日

12月30日
ダカールは、私たちをやさしく迎えた。

 2000年問題があるため、少し早目にダカ−ルに入ることにしました。1999年最後のダカ−ル行きエア・アフリックは、30人ほどのオフィシャルなどラリ−関係者の姿もみえました。多くの人は、年あけの2〜3日に現地入りするようですが、体調を整えられるので、私たち2人はあえて30日の便に。やっぱりそれは正解でした。

 いつものパターンでは、1月下旬にダカ−ルの海岸でゴ−ルを迎える訳ですが、その時の町中はラリ−記念のTシャツ売りのお兄さんがあふれ、なところでした。タクシ−などの料金がちょいとあがり、いろいろゴッタ返していて、ウギャ−ッて感じなのが正直。一大避寒地だし大都会なので当然でもあります。が、ラリ−郡団が来る4、5日前のフツ−のダカ−ルは、フツ−の観光客相手のとても静かな町だったのです。

 ラリ−が始まるとワッペンだらけのラリ−関係者だらけのホテルも、なんと10組も泊まっていないようで(300室ぐらいあるのに)経営大丈夫かしらと心配になってしまうくらい。でも、町のパン売りのおネエさんも、カフェのおじさんも、タクシ−の運転手さんも「何かちょーだーい」とよってくる子どもたちも、本当にフツ−の生活で、当り前だけどラリ−の時がちょっと異常状態になるんだなあとよく分かりました。

 私は何故かホテルの部屋でフランス語会話(初級!)のテキストをメモに写してました。写してテキストをダカ−ルで捨てていこうと思っていたので必死。丸々2日かかりました。手がケンショ−炎になってしまったほど!ラリ−なのに何してるのかしら・・・。でも「日本より時間がある」のです。そう、夫と二人でつくづく思ったのは、「なんて日本では時間がないのだろう」ということ。これは反省なのですが、友人と逢ったり、自然を歩いたりする時間が仕事以外ではなかなかとれなくて、いつも「時間がナ−イ!」と叫んでいるのですが、やっぱりそれはよくないと反省させられます。ゆとりのない中からは何も生まれません。一年のゆとりを全部凝縮して、この数日間があります。ラリ−は私たちにとっては最高の夢なので、ラリ−期間そのものが、ゆとりの遊びといってよいかもしれません…。

 ダカ−ルは静かにやさしくありました。タラップをおりると、「今年のアフリカはなんだか優しいね」と言葉を交しました。前々回'97の時もダカ−ルスタ−トでしたが、その時はあまり時間がなかったので、忙しく喧騒の中で過ぎていったのを覚えています。気候は、昼間はTシャツでOKですが、夕方は長袖、夜は軽目のジャンパ−やトレ−ナ−といった感じです。泳いでいる人もいますが、やはりライダ−の私たちは風邪でもひいたら最悪なので、ハデな動きはできません。「ウインドサ−フィンやりたいなあ、潜りたいなあ」と夫は言いますが、結局ウォ−キングどまり。身体はなまっちゃいけないし、こわしちゃいけないし、時間があるといってもけっこうむずかしいなぁ〜というのが実際のところでした。

こちら、2000年問題は大丈夫。

 そうそう、日本は2000年問題はどうたったのでしょうか。ホテルのTVで日本のカウントダウンをみていましたが、(東京タワ−の横で風船ポ−ンとあげているところ。増正寺で鐘ついてました。世界の中で日本は地味目に映りましたが、それがかえって日本ぽくて好感もてました)ニュ−スをみている限り、コンピュ−タ−がどうのこうのというのは無かったような…。ちょっとホッとしています。こちらではこのホテルが停電になったくらいかな。でもそれは新年で電気を使いすぎたって感じで、2000年問題ではありません。

 私たちは2000年は近くの中華レストランで迎えました。おいしくて夕食3日も通った店ですが、大晦日の客は2組だけ。12:00には私たちとレストランの従業員のみでした。爆竹の音と共に「ボン ナネー(新年おめでとう)」。これまた静かな2000年の幕開けでした。私たちのホテルは町から少し離れているので静かですが、きっとダカ−ルの中心地ではすごい騒ぎになっていることでしょう。


2000年1月1日〜3日
ダカールでのお正月に思ったこと

 1月3、4日、ダカールに設けられた検査場で、行政検査が行われる。前回の車検は車両の検査で、これは人間の検査、すなわち人検とも呼ばれる。ここでは、エントリー関係の書類や、様々な支払の確認、パスポートや通過国のビザの確認、更に救急時の転送先などの情報もこの場で確認することになる。

 さて、2000年の1月1日は私も久し振りに町に出ました。狂乱の騒ぎのあとをていねいにお掃除している係の人が目立ちます。アフリカで掃除している人というのをみかけたのは実は初めてなので、2人ともびっくりしました。元旦だからかな。そのゴミはどこにいくのかしらーと気になりました。生活ゴミは海岸にすててそれをヤギが食べるという光景、空き地で紙やビニ−ルが山積みという光景はよく見かけますが、リサイクルされきれず、多量のゴミと化しているのも目のあたりにするので、これはちょっと4日に会えるセネガル大使館の方に聞いてみたいなぁと思っています。

 さて、いつも必ず行くファ−ストショップ「アリババ」の店で、それはそれは美味しいトルコ風のクレ−プ風サンドウィッチ「Cuwaruma シュワルマ(200円)」とミックスサラダ「Cruoliteクルュディチ(130円)」を食べました。お、ここまで書いたらホテルの窓から大西洋を行くフェリ−が見えました(1/4、午前9:30)。まさしくラリ−車両を積んだフェリ−!!今日はカミオン(トラック)とオ−ト(4×4)のピックアップがあります。ふう、やっとラリ−が始まるという気になってきますね。とてもキレイな店で、以前完走した時に初めて口にしたものだったので、「ゲンかつぎ」っていうところでしょうか。

 とても行きたかったのに行けなかった「ゴレ島」にも行ってきました。「GOREE」はダカ−ルの港から30分ほど船にのっていく奴隷島と呼ばれていた島です。かつてアフリカ大陸に集められてきた奴隷としての黒人たちは、セネガルのサン・ルイ、ゴレ島などから東海岸に送られたのでした。その数、2世紀にわたり、合計1500万人。私はその悲劇の島を、絶対に見ておかなきゃいかんと今まで何度も思いつつ、行けなかったのです。今回はやっと足を運ぶことができました。

 島へ向かうフェリ−の船上は、人種のるつぼ。観光客と地元ガイドが殆どですが、30ヶ国くらいの人がいそう。「ノアの方舟みたい」とは夫の言葉。

 行って驚いたのは、昔からの町並みがあり、全く暗い雰囲気はないのですが、長い歴史とともにいろんなカタチを経てきたんだなぁというのが分かりました。20分も歩けば一周してしまうゴレ島は、実は砲台のあとだらけ。西に一番つきでているセネガルの、その又一番先端がダカ−ルなのですから仕方ありません。ポルトガル、オランダ、フランスにおさえられ、今から400年以上前にアメリカに奴隷を送り出したゴレ島。私はヨ−ロッパ各国の「白人が黒人をつれていった」という印象しかありませんが、イギリスがその余裕が無くなった頃から、実は「黒人の人集めが、各所で黒人を集めて送っていた」ということを知り、複雑な気持ちになりました。19世紀まで奴隷を送るということが続いたのだそうです。

 セネガル共和国が独立したのは私の生年月日と近い昭和32年だそうですが、それまで統治していたフランスとはいい関係にあったので、こうして今のカタチになったらしいのです。昨年の外務省のチラシによると、内戦ゲリラの南部での独立運動による闘争も問題になっているとのことですが…。(今はおさまりつつあるとの事です)

 ゴレ島はともかく砲台の島、要塞の島でしたが、人々は静かに生活しており(小学生サッカーの試合見物もしました)観光だけで充分食べていけることはよかったなぁと思いました。しかし、かつて多くの奴隷たちは、一体島のどこにいたのかが分かりませんでした(ガイドを雇わなかったので)。私は部屋があるのかなと思っていたのですが、たぶん野外にそのまま、かしら。奴隷という言葉は死語ですが、人間とは何ぞやということを考える時、多くのものを教えてくれます。
 

ようやく、チームメイトもやってきた...。

 セネガル共和国で思い出しましたが、チ−ムメンバ−のトラックのドライバ−とナビは、「チェコ リパブリック(共和国)が正解です。私は「チェコスロバキア」なんて書いてたんですよね。大変失礼致しました。そういえば昨日、何故若い27才のナビが自国語しかしゃべれず、50才くらいのドライバ−がチェコ、ドイツ、ロシア、イタリア、フランス語としゃべれるのか聞いたら、丁度若い彼らの年代は自国語しかしゃべってはいけないという規則があったそう。チェコグラス、チャスラフスカ、アイスホッケ−、プラハの春…私たち2人は、あまりにチェコのことをしらないなぁ0「ニ反省というか何というか。向こうも日本のことは「エレクトロニック」と「ナガノ」しか知らないと言ってたけど。

 さて、1/3、やっとラリ−出場者がやってきました。ダカ−ル入りの飛行機はどれもが3〜20時間遅れで、これが2000年問題の余波だったみたい。皆、お疲れのご様子。車検よりもぐったり疲れる書類検査を3〜4時間もかけてやり、ブリタニィモトのメンバ−とも久々に逢えました。しかし、なんとメカニックのティエリ−の姿がない…諸事情で急きょ来れなくなったらしい!エ−ッ!って感じですが、代わりのメカがいるとのことでメンバ−交替があったそうな。ここで判明したのが、ベルギ−人のクロコダイルダンディハットの人の名がパトリックではなくPaulポ−ル(本当はVanhemelrijckバンハ−モ−レッツさん。発音できない)、ベルギー人ライダーの名前はロ−ランさん(メカの名前と間違えてました あら、私っていいかげん!)でした。パトリック・ボダ−ルさんがメカで来るそうだけど、皆パトリックだのクリストフだの似てるので、う〜っ!覚えるのが大変。

 日本人2人、谷口さんと斉藤さんも元気でした。お正月前後はフランス人チームの自宅に招かれてよい思い出をつくっていたみたい。斉藤さんは、頭5部刈りにしてビシッ。同じヘアスタイルの夫と斉藤さんと柔術のシャンピオンさんが並ぶと、ちょっとヤルって感じです。あ、シャンピオンさん(仏、27才)は、ナント市で障害者(事故でそうなった人がほとんどらしい)再生の為の看護をしているそうです。educateurというらしいのですが。半植物人間の人を何名も看ているとのこと。担当は10人。施設には60人いるそうですが、リハビリには個人差があって、よくなった人は運転免許をとった人もいるとのこと。リハビリは農業がよいらしいです。障害をもった方たちが、それはそれは生き生きとワインづくりをしている栃木の「ココファ−ム」を思い出しました。シャンピオンさんが輝いてみえました。


1月4日〜5日
いろんな出会いがありますね。

 今回のラリーは1200人くらいの参加者があるそうですが、行きの飛行機ではポーランド人のライダーたちと一緒になりました。ヤマハのバイクでの出場ですが、なんとポーランド人のパリ・ダカールラリー参加は初めてなんですって。「ゆっくりでいいから、とにかく完走しなくちゃ!」と語ってくれました。

 また、KTMで、夫とメカともう一人の3人体制となっているそのチームメイトはフィリピン人ライダー。フィリピンからも今回が初参加だそうです。そんなカンジで、出場国はいろいろ拡がっているみたい。

 セネガルの日本大使館で実施していただいた壮行会も、ホントありがたいことだと思います。選手たちも久々の「しょうゆ味」ごはんをとても楽しみにしていました。またこの時間は、いろんな情報交換ができる楽しいひとときでもあります。初めての任地がセネガルだった 大使館の方は「篠塚さんに会える〜ッ!」と感激。こういったうれしい出会いもたくさんありました。

セネガルのゴミ事情は?

 今回、ゴミのことをさっそく尋ねてみました。すると、1988年に日本の援助で、ゴミ処理機器が導入されていたのでした。また、街中に『セットset セッタンsetal 』と書かれたポスターがたくさん貼ってあるらしい(実は私はまだ見てない!)こともわかりました。(「セット」は「掃除する」「セッタン」は「掃除しなさい」の意味です)ゴミ処理の方法については埋め立てがほとんどで、プラスチック類を処理する機械などは導入されていないのだそうです。人の国とはいえ、気になることですね。

 また、粗大ゴミというものがないこともわかって、なるほどと思いました。自動車、家具、その他大きいものは信じられないくらいほど「みっちりと」使われるのです。ベッドなどは リ・リ・リ・リ・・・・リサイクルといったくらいに使い込まれています。

 『街にゴミは少なくきれいだけど、使い捨ての粗大ゴミの多い日本』と、『街にゴミはあるけど、モノをきっちりと大事に使うセネガル』さてどちらがいいのか、考えてしまいますね〜。(足して2で割りたいくらいですね〜笑)日本大使館の方は「セネガルの街はきれいでしょ〜!」と言われたとおり、街中を見るとセネガルの人は生活の仕方、その他ホントきれいにしているなぁ〜という印象でした。とても学ぶものが多かったのです、ハイ。

楽しいダカールのまち。明日はここをスタートします。

 それにしてもダカールは楽しいところです。正月はぐっと人も増え、朝夕のラッシュはものすごい!でも街の雰囲気は活気にあふれとても楽しいのです。車で走ってみると、その交通ルールを理解するまでは「ヒェーッ!」となってしまいます。高速道路の渋滞時は車線数が規定の倍になっていたり、路肩のオフロードも有効利用(もちろん違反ですが)していたりするのです。「追い越しの追い越し」もよくあるパターンのようで、自分が走っている車線に対向車が向かって走ってくる、なーんて具合です。(でも面白い!) 

 セネガルには現在60人の海外協力隊員の他に政府と企業関係者など70数名の邦人が住んでいます。日本からは水、教育、医療の3本柱の支援のほか、米などの食料増産のための援助があるそうです。セネガルは訪れるたびにどんどん豊かになっていきます。私もこんなにお世話になっているこの地セネガルに、何かお返しができたらなぁ、と思うのですが.....もっとセネガルをよく知ってラリー中にゴミを落とさないことがせめてものお返しかしら。

 さて、1/5は船からバイクを降ろしました。半日整備をしてマシンを完璧にして、と思うものの、まだまだ他にもやることがいっぱいです。他の選手も再度保管される夕方までにみっちりやっておこうという人がたくさんいました。夫は選手のイケマチくんと、彼のメカニックのコウシゲくんにも手伝ってもらって90%の状態にまでもっていくことができました。「ゴールにつくまでにはいいマシンに仕上がっているよ」という言葉があるくらい、新しいマシンは、自分で走って改造、走って改造というふうに、仕上げに時間がかかるんですよね。

 ただ今、出発前夜のブリーフィングを終え、おいしい中華の夕食もすませ、9時間後にはスタート!の状態です。(1/5 夜10時すぎ)体調はバッチリ!中華とブラジル料理屋さんのおいしい食事でちょっとデブにはなりましたが...。あとはもう出たとこ勝負! でもあせらず、アガデスまではゆっくりゆっくりマイペースで、自然を楽しんで走ります。ワーイ!やっとスタートだぜ!!大好きなアフリカの砂漠と人々と出会えると思うと不思議と怖さもなくなり、ワクワクしています。

 とにかく、それでは行ってきまーす!


1月6日
1日目、行ってきましたぁ〜!

第1エタップ 594km(ダカール〜タンバクンダ/SS284km、リエゾン310km)
 セネガルの埃っぽいサバンナを走るエタップ。選手にとっては肩慣らしともいえるエタップだ。ただし、クモの巣のような無数のピストではミスコースが多く、ナビゲーションの難しいルートである。また、比較的交通量の多い地域であり、特に雨季に付けられた無数の深いワダチが乾季のこの時期にはそのままの状態で固まっていて、バイクにとっては非常に走行の難しい路面である。→用語解説

ラリー参加後、初のレポートは現地時間1/6夜10時すぎ(日本時間1/7朝7時15分)に入ってきました。衛星電話は、何度か通話中に切れるなど コンディションがイマイチでしたが声は元気そのもの。会話の途中、現地の人が近くのライダーのボックスを物色し「No!No!No!」と山村さんが追い払うなどのエピソードや、夫の雅康さんにゴール直前に追い付くなどのニュース(なぜ追い付いたかは以下お読みください)を交えたラリーレポート第一弾です!

 無事着きましたよ〜、へへへ。あのですね、初日でしたが結構キビシイコースでしたよ。コースは去年と全く同じだったんです。ところが異常気象で、この辺りは昨年11月〜12月にすごく雨が降ったんですって。で、それの影響だと思うんですが、車のワダチがギッチリとカターくなったところに、砂が浮いているという、私の一番苦手なパターンの道に変わっていて。4回ほど転倒しました(笑)。1回は「サービス、サービス」とか言って余裕だったんですけど。

 明るいうちに帰って来れました。チームアラコの浅賀さんに抜かれたところでゴール!ってなカンジでした。あまり車にも抜かれないし、トラックには1台も抜かれませんでした。抜いていったのは、速い車のうまい人ばかりだったので、とても楽に走れました。ずっと最初は転倒しなかったので、結構気持ちよく走っていたんだけどね。

 今日のニュースは、ゴール手前2km地点で、なんとKTMの夫(雅康)に追い付いたこと!そこで立ち往生してたんですね。タンクから燃料がちょっとだけ漏れていたのがスタート前に分かったんだけど、とりあえずそれで行ってみよう、ということで走っていたら、ゴール手前でガス欠。人にもらいながらかけていたらしいんです。ちょうど私が来た時には(ガソリンは少し入ってたんだけど)エンジンがかからなくて。結局地元の人とか観客とかを呼んでね、みんなで押しがけして、何とかエンジンがかかって・・・。

 スタートは私と同じで、結局ゴールも1分差くらいでした。ずいぶん飛ばしてたのに、1時間半もそれで立ち往生してたから。だから、成績は・・・アハハハハ(笑)っていう感じじゃないかしら・・・。で、何位なのかはまだ発表されていないんで、全然分からないんですが、私も4回ほど転倒してますんで、多分下から数えた方が早いかもしれません・・・(笑)。

 でも初日から4日間がとにかくすごくあぶない道なんですよ。こういうカンジで。で、もう転倒者続出で、気づけば転倒者が横にいる、というカンジです。私たちのチームは、初日からなんと全員、メディカルにお世話になりました(笑)。全員!!(強調!笑)それと、日本人の二人がまだ帰ってきていません。こちらは現地時間10時過ぎてるんですけども、情報は入ってません。どんな状況なのか分からないんですが、T−3の、私たちのチーム(シェフが乗っている)の車もまだ帰ってきていないので、もしかしたら一緒に同行しているのではないでしょうか。

 明日はカミオンとエアメカが来ない日なので、今日中に直さなきゃ!というカンジでみんな今、私の周りではトンカントンカンとバイクを直しています。私のバイクはそんなに損傷はなかったんだけど、他の人はカウリングとかフロント周りとか、グッチャリといっちゃってて、「後ろからボクはみんなを見て行くんだ」と言っていたベルギーのローランさんは途中で気分が悪くなったらしくて、チェックポイントでゲロ吐いてました!(笑)何かみんな体調が結構元気いい割に、倒れてます(笑)。

 私はと言えば、親指だけがちょっと調子良くないんだけど、アクセル側なので、これ以上転倒するとヤバイというのと、抑えが効かなくなっちゃうとヤバイというので、テーピング、あと薬を飲んで・・・ガンバリまーす!
 でも道も面白かったよ。すごい綺麗なサボテンのような花が咲いてたりねー。あと、雨が降りました。こんなに下の方で雨に出会ったのは、珍しいですね。去年もちょっと雨が降ったりしたんだけど、初めてに近い、ですね。ずーっと、「パラパラッ、パラパラッ」って割と大粒の雨がゴーグルにかかるくらい降ってました。で、前に走った時は、ものすごく暑かったんですよ。今回は、水を4リットルくらいウェアに仕込んでいったんだけど、結局、途中で転倒した時に飲んだくらいで、今年は全然暑くなかったの。明日は暑いらしいんだ(笑)。で、すごく(暑くなかったので)楽だったんです。もうホント、全然違う!

(すると突然)
あ〜っ!ダメダメ! NO! NO!! NO!!! 

 今ねー、私のじゃないんだけど、違うライダーの保管箱を「何かないかな〜」っていうカンジで開けてたのよ、地元の人がね。結構、ドロボーが多いんですよね、ホントに。「必ず自分の荷物は自分で管理してね」って主催者は言うんだけど、ガンガンいろんな人が入ってきちゃうんで、大変なのね。

 到着は何時だったかな〜。ものすごく明るかったから、5時くらいかな〜。あるいはもっと・・・あ、今また雨が降ってきた!テントの中に荷物を入れなきゃ・・・んー、入れました。

 とにかく初日から割とハードではありますね。あっ、そうだ、タンバクンダとか近くの町で、海外青年協力隊の人が来てくれて、オニギリを食べることができました。「おかか」と「ゆかり」のオニギリを作ってきて、日本人みんなに配ってくれて。で、私たちは御礼といっては何だけど、結構荷物を持ちすぎていたので、いらない洋服をあげたりして。物々交換!(笑)。そんな出会いがあったりして。1200人の関係者がいるんで、何人かは骨折してリタイヤとか、鎖骨や足を折ってリタイヤなんて人がいるんですが、今日はまだそんなにいないんじゃないでしょうか。でも、4輪でまだ帰ってこない人もいますねー。

 初日はそんなカンジです。ではまた明日レポートしますね〜、ガンバリまーす!!

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