◎ 8/29・30

8月29日(現地時間8月29日17:00)
ラリー終了後の一報目が来ました

 今、ニュージーランドです。一日一報、ということで報告しますね。

 表彰式の次の日、朝早くからシドニーへ向かいました。最終日の第1走者の菅原さん、前日にエンジンが焼き付いてしまい悔し泣きしていた彼ですが、ラストランで大転倒し、その前にも2日キャンセルしてしまっていたために、リタイアになってしまいました。転倒後、息が出来ずに救急隊に運ばれていったので心配していたんですが、表彰式に出られて本当によかった。私もパリダカの時に同じようにコケて同じようにケガをしたから、気持ちがよく分かります。

 彼は記憶喪失になった割には元気で、このまま以前旅をした街まで旅行するというので、シドニーのセントラル駅で生還祝いの安いお昼をごちそうしました。4時間くらい一緒にお話をしたり歩いたりして、とても楽しかったです。空港には2日目にリタイアしたヤダくん(TT250で出場、足を骨折しリタイア)も来ていました。じっくり話を聞いたら、彼は7月末から来てマシンを作っていて、安くあげるために頑張っていた人で、ずっと友達と一緒に、車とバイクでいろんな街を巡りながらラリーを追っていたと言うことです。神奈川のバイク屋さんだそうですが、皆それぞれいろんな旅があるなぁと何だか楽しくなってしまいます。

 最終日の表彰パーティで、いろんな人と住所交換などをして、いろんな事も分かったので、またそれはご報告します。あ、飛行機が出てしまうのでこの辺で。


8月30日
ラリー終了後の続報です

 原稿を書こうと思ったんですけど、時差ボケです(笑)。パペーテというタヒチ島で一番大きな街を3時間くらい歩いたんですけど。オーストラリアからニュージーランドに渡って、ここ(タヒチ島)まで来たら、逆回りなので時差ボケになってしまいました。
 でも面白い夢を見ました。菅野さんというお友だちの女の子が夢に出てきて、パペーテの街に出よう、って。その後、20才代にバイク屋さんをやってた頃の友達が何十人も出てきました。メカニックの今野さんも出てきたなぁ。3本立て続けで夢を見てしまいました。今、夜中の10時過ぎなんですけど、目が覚めてしまったので電話で後書きをすることにしました。日付変更線を超えたので、今日は29日です。地球は広いなぁ。

 さて、ラリーのことを色々。結局、結果はバイクの1位はKTM660、2位がXR400。そして3位がハスクバーナ610。ケビンシュワンツは13位。エンデューロが大変だったらしいんだけど、最後に行われた砂場でのマッチレースで、優勝。賞品をゲットしていました。やっぱりサーキットは速い。
 結構面白いのが、リザルトをじっくり眺めていたら、37時間のペナルティなのに7位という人がいました。ペナルティが無かったら、この人は1位だったでしょうね。

 そして日本人情報。日本人の15位の蒲田さんが、日本人ではトップでした。新婚さんで、奥さんがサポートで回っていたんですけど、仲が良くてさぁ(笑)。奥さんもライダーみたい。千葉県の市川市の人らしいんだけど、最終日の前々日くらいに転倒して、唇の横がバックリ切れて、5針くらい縫ったのよね。口の横に口ができててコワーイって言う感じで(笑)。縫った後ももちろん走っていて。私たちが走っている中で見かけた何人かの一人です。蒲田さんは一回抜いた、唯一抜けたというべきか。早いバイクの人だけ先にいって、その次オートで、その後に遅いバイクがスタートするんだけど、先に行ってる日本人のバイクが少なかったのです。その中で私たちが走りを見ることのできた唯一の人ですね。とっても幸せそうで、完走できて、日本人トップで、良かった良かった。賞を2つもらったんだよね。日本人トップと、35歳以上のクラスで1位。

 日本人2位は、17位のスナミあきひこさんという倉敷の人。本田のXR650で出てたんだけど、チームとしてはちょっと面白くて、ハーレー軍団だったんですよ。サポートの人が杉並区の上井草で、バイカーズ・モトをやってるハーレーダビッドソン屋のオーナー(本村さん)という人。他にも「マッパー」というニックネームのたまい君という人もサポートで来ていました。マッパーって何だろうと思ったら、ラリーで使うマップをチェックして巻き付ける役割だったそうです(笑)。オージーの人達と組んで数人の軍団を作ってて、ハーレーダビッドソンの雰囲気で出てました。「来年はハーレーで出場かね?」と言っておきました(笑)。

 18位が関本さん。関本さんは、スズキのレンタルで出ていた人です。何とこの人は東京都田無市の人だったんです。私の出生地だったんでビックリしちゃった。19位の千徳さん、250ノーマルクラスで優勝したんですけど、何と北海道岩見沢の人だったのね。私は岩見沢のすぐ横の石狩当別というところに住んでいたことがあるので、またビックリ。もっと早くお話すればよかった。千徳さんは岩見沢労災病院放射線科で診療放射線技師として働いている方でした。

 20位の河田さん、きっと今回のラリー中、一番マイペースだったと思われる人(笑)。レンタルしたスズキのTRZE400を買い上げて、そのままオーストラリアの旅へと旅立ちました。走り足りなかったのかしら(笑)。三重県上野市の人でした。こうやっていろんな人の場所を聞くと、旅行家の私としては楽しくてしょうがないのね。人数が多すぎて、そんなに詳しい話ができなかったので、もっと話したかったな。河田さんは途中でゲートを開けて、私たちを通してくれました。

 23位の田中さんは、クワドで出ていた方です。大阪市から来た28才のフリーランス。このラリーに出るために、ダイハツの工場でミラのミラー部分(笑)の取り付けの作業でお金を稼いだそうです。山崎パンの工場でも働いていたらしくて、かつて山崎の最中流れ作業をやっていた私としては、盛り上がりました。このクワドは自分のものだし、他にも持っているらしいし、パーツを買うために必死にバイトをしまくっていて、バイトをしている時の方が痩せてしまうということを聞いていて、「B型でしょ?」と言ったら大当たり(笑)。バイクも乗っていたそうですが、「クワドは難しくて面白い」と言っていました。彼もそうですが、他の人も皆、お金を貯めるのはとーっても大変みたい。死ぬ気で働いたり、ローンを組んだり。とにかく帰ってからが大変そうです。ガンバレー。

 24位の三ヶ尻さんは、いつもニコニコ感じの良い方でした。大分市教育委員会学校給食共同調理場主任とかで、とにかく教育委員会のお仕事で転々としているみたい。大分市は私も大好きなところなので、時間があったら温泉談義をしたかった。25位の鈴木さん、「多分2年後、また走ります」と書いてありました。中野区の方です。

 26位の杉野真紀子ちゃんは、TTR250をレンタルして、ガルルというオフロードバイク雑誌の招待選手に選ばれてきたので、何としても走らなければということだったと思うのですが、2日目の転倒顔面強打にも屈せず、コンスタントに走りきって、エライ。最下位ですが女性クラス優勝ということで、何だかパリダカの時の私みたい(笑)。最後のサンドビーチランのときに走りを初めて見たけれど、ジャンプも綺麗に決まっていて、格好良かったよ。愛知県岡崎市の会社員。最後のパーティでも2度アップで登場してました。一つはチームウォンバットなので、ウォンバットのぬいぐるみと一緒の所。そして顔面強打した後、超アップで写されてました。腫れていた顔も最後には70%引っ込んだ感じで、浴衣も似合ってましたよ(浴衣で表彰台に上がったの)。英語ペラペラです。彼女もそうですが、エントラントやサポートの中にはワーキングホリデーでずーっと回っていた方も多く、オーストラリアを好きになる人には何か共通の匂いがしてましたね。

 さて、リタイアしちゃったヤダ君は、神奈川県海老名市でヒューイズガレージというバイクショップをやっている店長さん。リタイアになっちゃったけれどすごく楽しんでいました。オーストラリアンサファリの特長は、お金を払った分は楽しめるってことかしら。骨折なのに車を運転して(笑)4000キロ。スゴイ。何となくパリダカの谷口さん的匂いのある人です。彼のガソリンを持ってあげるって約束したのに、できなくて残念。次に、日本人トップで快走していたが、転倒による肩の骨折のため(多分剥離骨折)リタイアした岩崎有男(くにお)さん。何度もトライしているものの、言葉にならないほど悔しいだろうな。でも、弟の全男さんと一緒のコンビが評判でした。2人ともハンサムで、雰囲気が似ていて、優しくて、明るくて、なーんか良いんだよね。リタイアした後、弟が彼のバイクを運んでいましたが、来年は弟くんが出ちゃったりして。愛知県日進市からやってきていました。きっとまたチャレンジ、それともパリダカかしら。

 最後まで私と一緒だった菅原さん、京都山科区の方ですが、ゴール翌日の新聞にケビンシュワンツと同じくらいの大きさで出ていました。名前も年齢も載っていて、写真はタンカで運ばれる所でした。思わずエリザベットと2人で「ワオ!」と唸ってしまいました。早速今野君に電話をして、その新聞をいっぱい買っておくように頼みました。今頃懐かしい街で旅をしているのかしら。
 序盤でリタイアした大野さん、栃木県矢板市からの方ですが、左肩をやられてずっと片手をぶら下げたままビバークにいました。よくよく話を聞くと、妹の純子さんが本田技研に勤めていて、私が研究所で講演をさせていただいた時の担当者だったということです。何と世界は狭い。純子さん宛てにオーストラリアでサインをする私でした。

 選手の他にも、サポートの人達にも結構面白い人がいっぱいいて、クワドの田中くんのサポートの田村くんは、大阪工業大(だったかな?)の学生で、頼まれてやってきたのですが、すんげえ働いてました。むちゃくちゃ整理整頓がうまくて、マッパーもしていたし、クワド全バラを毎日せっせとお手伝いしていました。サポートの鑑のように働いていました。初めてで良い経験だったのではないでしょうか。
 ヤダ君のサポートで来ていた2人、オーストラリアの手配をやっていた斉藤くん、そして神奈川県からやってきた川野くん。日本人中一番若かったんじゃないかな。整備をすることもなくなってしまったので、物足りなそうではありましたが、初めてのラリー、どうだったのかな。
 もう1人、序盤で転倒、手足の骨折に見舞われた○○くん(ウォンバットチーム)。すごく速かったのに、転倒しちゃった、確かベテランだったと思うけど、最後のダーウィンでお食事だけ一緒にしました。もちろん入院していたんですが、ダーウィンにやってきて。動くのはスゴイ辛そうでしたが、一体どんな人で、どこからやってきて、どんなラリー感だったのか聞きたかったわ……。

 そういえば最終日前日、日本人全員でシズラーステーキという店に寄ったのですが、半分近くが手だの足だのに包帯が巻かれていて、周りの人の目が凄かったです(笑)。何の軍団だと思ったかな。

 最初の頃のレポートに出てきた柴多さん、最年長を目指していた人ね。この人は工務店を営む方ですが、最後までバイクと共にラリーを追っていました。手をやられていて痛かったみたいだけれど、ダーウィンに着いたことで、また何か次へと繋がっていったのではないでしょうか。

 4輪は、日本人で一番良かったのは14位の大川さん。パジェロで出場していました。大川さんは神奈川県厚木市でガンドリルの精密深孔加工をやっている、大川技研の社長さん。2度目のラリーも完走できて良かったですね。ペナルティは2時間。エライ!ナビゲーターの根本さん、パリダカに何度も出ている株式会社ロータスの本部事務局の方です。とても気さくで、何だか顔を見るとホッとしてしまいます。この2人のコンビが良くて、そんなに車にダメージはなかったのではないかなと思うのですが、毎日朝まで足回りまでキチンと整備していました。メカの三栖さんは、京都市でジャンクションという店をやっている方。この方ともう1人のメカ(ガーン、お名前を聞くのを忘れていた。いつも話していたのに。お名前教えてくださーい)、4人のチームがとってもうまくいっていたみたいで、ラリーはこういう風にコンスタントじゃないと、良いところに行けないんですよね。勉強になりました。

 23位、つまり最下位ではあったものの、A-1.3クラスで優勝したチームYOKOの福沢曜子ちゃんは、もうラリーは私と同じくらい長い、千葉県市川市の人です。ずっとバイクで出ていたのですが、三菱の会社で会計をやっているということもあって、確かいろんなラリーに車でも出ていたはずです。97年にはアジアンラリー、そしてこの後はサポートとしてWRCのニュージーランドラリーを見に行くとかで、4輪の方へぐーっと傾いていったみたい。「バイクでラリーはやらないの?」って言ったら、「もうバイクは趣味のつもり」と言ってました。すっげえ根性の持ち主で、よく壊すしぶつかるんだけど(笑)、必ず何とかして帰ってくる。ネバーギブアップの精神は、誰にも負けないって感じの子です。今回は今までの中でも一番よく喋りました。大体は口の動きで、お互い喋っていることが分かるのですが、複雑なことになるとメモ帳に書き殴って話すんですが、その速さたるや、スゴイ。コミュニケーションはナビとの間はとても難しかったかも知れませんが、本当に普通の生活では全く関係ないですね。表彰式の時、オーストラリアンサファリでは曜子ちゃんは既に有名なので、オーガナイザーの人が「皆、彼女は耳が不自由なので、両手を挙げてシェイクしてあげてください」って言って、全員がわーいと手を挙げて振ったのですが、何か良い雰囲気でした。ナビゲーターは米川さん。三菱関連の会社の人だそうです。初めてのラリー、初めてのナビ、初めてのオーストラリアで、大変だったみたいですが、曜子ちゃんに伝える方法を事前にもう少し練っておくべきだったのかなという感じだったみたいです。手で示すだけでなく、明かりとか、プレートとか、ありとあらゆる空間を使って状況を知らせないと、危険個所を事前に知ることができないとドライバーは辛いですもんね。彼女の次のラリーもまた楽しみです。そうそう、今回は彼女にパジェロioをレンタルしていたルーレーシングの人にいろいろとお世話になってしまったので、曜子ちゃんにもそのことは感謝しなくてはなりません。
 私たちはA-5.2クラスで、クラス7位。上位陣を占めるクラスだったので太刀打ちは出来ませんが、一瞬、もしサスペンションが折れなかったら、なんて考えてしまいます。でもラリーに「IF」はないのよね。そのトラブルをも含めて私たちのラリーの100%がこの結果だったと思っています。

 という顔ぶれ、パリダカよりも多い出場者を紹介してしまいました(笑)。

 ここ最近嬉しかったこと。アリススプリングスでお世話になったスバルのディーラーのところに電話を入れました。「21位で女性クラス優勝だよー」と言うと、それはそれは喜んでいてくれて。心配していた新車の納車も終わったみたいで、ホッとしてます。ちなみにノーマルサスペンションを奪い買ったので、どうしても足りないパーツがいくつかあって、オーストラリアで取るよりも日本から送った方が速いということで、フォレスターの元の持ち主の仲田コーティングの社長さんからパーツを空輸するというスゴイことをしただけに、とにかくホッとしました。私もラリーをやっていて、展示車両からパーツをもらったのは初めてです(笑)。いろいろなことがあるものですね。
 とにかく、フォレスターはガレ場の石も、亀裂の深い段差も、そして心配された河渡りも、何の心配もなくスルスルと抜け、快調に走ってくれました。最初は皆「エーッ?」て顔をしていたんですが、「クロスカントリーでもスバルはいけるね」って皆に褒められて嬉しかったです。

 それにしてもシャワーとトイレと水がこんなに恵まれているラリーは初めてだった。でも昔を知っている曜子ちゃんも「前は倍以上距離があって、毎日夜中になってスゴイ厳しかったので、今年はウソみたいに簡単」と言っていました。私も自分の体の疲れを考えると、やはりパリダカとは比べものにならないくらい楽だけれど、それが良いとか悪いとかいう問題ではないと思うのね。パリダカールも昔より簡単になってきているような気がするし、快適な暮らしが営まれるようになってきているし、もしかしたらクロスカントリーラリー自体が快適な方、楽な方へと進んでいるのかもしれませんね。苦しい冒険ものは流行らないのかも。でも、でも私はやっぱりゲロ吐いちゃうくらい苦しいパリダカが好きです。オーストラリアンサファリもまた出てみたいなと思うけれど。また視点を変えて出てみたら、いいなあ。オート総合1位のブルース・グランドさんとハーリースズキ(完璧日本人)のコンビが表彰式で言っていたのですが、「2年連続優勝だし、次はパリダカに行くぞー!」と叫びまくっていました。やはりオーストラリアの先にはパリダカありきなの?というのもちょっぴり嬉しかったですね。

 最後になりますが、ブルーウェーブアドベンチャーの加藤さん、そして毎日選手のインタビューを集めていた深谷くん(彼は何と私がインストラクターを勤めたヤマハのランツァツアーに参加してくれた人でした。ビックリ)、輸送や荷物やその他諸々を全部引き受けていたタービュランスの石井くん(彼は何と1997年に初めて私がパリダカールを完走した時に一緒に出ていて完走した日本人です)。彼らが、これこそパリダカでは考えられないほど選手の面倒を見てくれて、そのお陰で何の不安もなく快適にラリーをすることができました。勿論、昔からこんなシステムが揃っていたわけではなく、段々と工夫されて、日本人が出やすいようにしてきてくれたみたいですが、多分儲けなんてないんじゃないかな、とこちらが不安になるくらい動き回ってくれていました。心より感謝しています。

 ガルルの編集長の船橋さんも、人一倍の明るさで、選手の大きな励みになったと思います。次はパリダカ行きたいって最後に叫んでましたので、次はパリダカかしら。それとも、UAEかな。オーストラリアには砂漠がないから、オーストラリアに出た人は、UAEに出て、そしてその後にパリダカールがあるのよね。私もUAEは一度は行ってみたいなと思っているのですが、とにかくここまでやってきてラリーをする人達って、やっぱり変な人達なのかもしれませんね(笑)。最後、荷物整理を半日している時に、せっせせっせと荷物を作り上げる皆の姿を見ながら、そんなコトを思いました。でも最高に皆楽しそうで、輝いていて。これは途中で何度も思ったのだけれども、精一杯頑張って走ったり整備をしたり、地道に突き進んでいくそのひたむきな姿を見せていただくために、私はラリーに行っているのかなと思いました。本当に頑張る姿って、なかなか間近で見ることはできないもんね。皆の姿に励まされて、私も完走することができました。メカニックの今野さんにも頑張っていただいて、エリザベットもどんどん上手くなったし、とっても良い想い出ができました。スポンサーの皆様もありがとうございましたーっ。

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