vol.80 2008年 2月22日  『ワンダー・フィールド』

 2007年のヤンマー情報誌「ワンダー・フィールド」の5号、6号に連載されたものです。稲作りをいったん休止した時だっただけに、心の中では寂しくて仕方ありませんでした。でも思い返せばそれはそれは素晴らしいお米作りの世界。この中には語り尽くせないほどの汗や涙や笑いがあり、つくづくいい時間を過ごしたと思います。さて、これからはどこへ向かっていくのか。自分でも楽しみなのですが。

注釈

ロハス「LOHAS」:
 Lifestyles of Health and Sustainability の頭文字をとった略語で、1990年代後半にアメリカ中西部で生まれた新しいビジネス・コンセプトが源流。健康と環境、持続可能な社会生活を心がける生活スタイルのこと。

スローライフ:
 1980年代にイタリアで起こった「スロー・フード運動」を受けたひとつのスタイル。ただ単にゆったりと暮らすことではなく、地球や環境、地域や自分自身を意識した暮らし方。”結”→様々なものやひとを繋げて結ぶこと。大きな仕事の相互扶助。


 富士宮市に引っ越して来てしばらくたった時のこと。愛知県にIターンした友人が、「自分達で作ったお米なの」と言って、密封ビニール袋に入った200グラムほどの玄米をお土産に持ってきてくれました。愛おしそうにお米を見つめる友人。そしてそのピカピカの新米の美味しかったことと言ったらありません。世の中にこんな贅沢なことがあるのかなと思った私は、「いつかお米を作れたらなあ」と心で願いました。すでにそのころお庭の一画で家庭菜園を始め、その楽しさにのめり込んでいた私は、お米作りを最高級の夢にランクしたのでした。お米が好きだったこと、そして「野菜とお米を作れば生きていける!」という本能からのメッセージでした。そして思えば叶うのが夢。テレビの番組で三重県の紀和町にある棚田を取材したことがきっかけで、田圃オーナー制度の会員になり、2年間ほど離れた所の田圃を慕う日が続きました。残念だったのは、遠すぎて作業日程が合わず、なかなか参加出来なかったこと。お陰で(?)「本格的にやりたいなあ」という気持が固まってきました。

 そんな時、「共同でやる田圃があるんだけれど、一緒にお米やってみる?」と、郵便局員のY氏から話を持ちかけられました。兼業農家のY氏は、「富士山麓アイガモ農法の会」の人で、いつもにこにこしながら「やってみなきゃ分かんにゃー」と、何事にも前向きで冒険心のある人でした。その人柄にも惚れて、2000年の田植えに参加してみると、仲間もみんな濃い人たちばかりです。長年オーガニックでお茶や野菜や卵を生産している農家たち、そして農業をまったく経験したことのない会社員の人たちが十数名ほど集まっていました。酉年で動物好きの私には、アイガモの存在も実に魅力的でした。

 そして田植えを経験してみた感想は、一言、「何でこんな楽しいこと知らなかったんだろう!」。水や泥の感触、汗に触れる風の気持ちよさったらありません。もちろん面倒な準備などは任せっぱなしの”触り程度の農作業”でしたが、こんなに笑った自分も久しぶりでした。田植機や稲刈り機を動かすと、やんやの拍手が湧くのも「いい気になった」原因です。自分で言うのも何ですが、16歳からバイクに乗っていたので機械運転は慣れており、しかも悪路のレースばかりやっていたので、怖いどころか楽しくてたまりません。そして、お昼ご飯に出た黒米のお握りやお稲荷さんやお漬け物の美味しさで完全にノックアウトでした。美味しすぎたのです。東京に住んでいた頃は、身体を壊していたこともあり、いい食材(たとえ値段は高くとも素性の分かるもの)を求めてオーガニック食品を扱っているお店を渡り歩いていました。本物を食べて本物の身体を作りたい一心からです。それもひとつの方法ですが、田圃作業はストレートカウンターパンチ、という感じ。笑顔、汗、自然、仲間。みんなで一つのことに向かうということも新鮮でした。改めて”こういう豊かさを求めていたんだな〜”ということに気づいた私は、その翌年には4反3畝の田圃を借りて、レイコ田圃をスタートさせていました。

 農業に関わる人生を想像していたか?と言えば、ノーです。東京ではベランダでハーブを作るくらいが精一杯だったのに・・・何故。でも答えは血筋にあったのかもしれません。公務員だった父は、昔から植物を育てるのに長けており、自分の子供たちより植物が好きに違いないとみんなに思われているような人でした。野菜も植木もどんなものでもわさわさと実ってしまうのです。九十歳近い今でも、落ち葉での堆肥作りは怠らず、カレンダーには幾種類もの作業時期が細かく書き込まれています。そういえば昔、私の誕生日に、父が乾燥させたヒョウタンに色を塗ったものをくれたことがありました。今なら喜んでしまいますが、十代の乙女(私)には「何これ?」と、評判はよくありませんでした。
 そんな父の実父(祖父)は、愛媛の伊予市でお米の等級を決めるお役人さんだったそうです。先祖は村上水軍だと信じていたのに、実は広い田圃を持って稲作りをしていたと最近知って、びっくり。やはり血が騒いだのでしょうか。

 さて師匠のY氏の元で田圃作業を一から始めてみると、そこには、未知の世界へ飛び込んだ時のラリー参加と同じ様な興奮がありました。耕して「ほお〜っ」。育苗箱に種籾を蒔くだけで「へえ〜っ」。苗が育って「おお〜〜っ!!」。やるならば自然農でと思っていた私なので、無農薬無化学肥料には拘りましたが、まずは一通り一般的なやり方を学ぶことにしました。そして予想や下準備も相談しつつ組み上げていきましたが、戦略は「みんなで楽しく」と決定。実は最初は一人でコツコツやろうと思っていたものの、HPで「田植えやるよ〜!」と書いたところ、なんと全国から百人もの人が集まってしまったのです。私の意図と意志を飛び越えて、「やってみたい」という反応は大きく、そのことにも驚きました。でもこれも世の中の流れということが分かります。「猿の芋洗い」で考えると、一人(私)がやりたいと思ったということは、あちこちで同じ様なことに興味を持つ人が増えていると言うこと。同じ頃バイク仲間のマイク真木さんも千葉で米作りを始めたり、仕事場でテリー伊藤さんに逢った時には、「農業やってるの? やっぱり今からはそれだよね。」と賞賛されました。農業は最先端。そんな思いで私の稲作が始まりました。

 実は標高千メートル近い我が家では稲作は望めず、車で40分ほど下った温暖なところに田圃を借りており、朝夕、おっちらへっちらと通いました。途中、友人のクレソン田圃で山盛りのセリを摘み、四十羽のカモの待つ田圃へと向かいます。ちっとも苦にならなかったのは、到着すると「お母さ〜〜〜ん!」とホバークラフト状態で集まってくる可愛いその子たちに逢えるからでしょう。名前まで付けてしまったために、その後”食べられない”という問題にぶつかるのですが、アイガモ農法は予想以上に素晴らしい効力がありました。虫や草を食べてくれる実益だけでなく、なんといっても”癒し”効果絶大なのです。散歩の人達が声を掛けている姿を見るのは、私の密かな楽しみ。そのカモのサポートで育てられたキヌヒカリは、台風で倒れることもなくすくすくと育ち、今まで食べた中で一番美味しいご飯となりました。育てた人はみんなそう思うこともオモシロイ。目の前の富士山を、みんな「私のところから見える富士山が一番美しい」と思うのに近いですが、平和とはそんなことかもしれません。

 初年度はほぼ毎日自分が通いました。出張などでどうしても行けないときは社員二人が行ってくれましたが、「こんな楽しいこと任せるにはモッタイナイ」という思いの方が勝りました。毎日声を掛けているアイガモの成長も日々見たいし、彼らとお米を守りたい一心で、どんなに疲れていても田圃へ向かう日々。そして行けば、気持がよかったり、作業が進んだり、あるいはアクシデントを発見したり、「やっぱり来てよかった」と思うことがたくさんありました。師匠達は「もっと力抜いてやった方がいいよ」と言うのですが、今までの自分の生き方には「ほどほど」という言葉がありません。たとえばダイビングやマラソンやレースなど、何か初めてのものを始める時は、全力投球で向かっていくのが常でした。特に最初は大切。それは真剣にやればやるほどその真髄に触れることが出来るし、安全や喜びにつながることを何処かで知っていたからでしょう。「死ぬ気でヤル!」というのは私の口癖ですが(ちょっと怖い?)、それくらいでないと仲間も付いてきてくれないことも知っていました。「ほどほど」には「ほどほど」の結果しかありません。

 かくして実りの秋には29俵もの宝の山に囲まれて、幸せに浸る私や仲間がいましたが、田圃という場所を通じて得たものは、「土地を守る=自然を守る=地球を守るという実感」、「感謝の気持ちがものを育てる事実」、そして「食に関わることの素晴らしさ」だったような気がします。さてどんどん広がっていく田圃の良縁に背中を押され、更に意欲を燃やし始めた私。やっぱり・・・・血でしょうか?

つづき
次へ(2009年6月3日)
【Top Page】

Copyright 2001 Fairy Tale, Inc. All rights reserved.