vol.80 2008年 2月22日  『ワンダー・フィールド』 (つづき)

 「レイコたんぼ」と書かれた看板を見ながら小道を入ると、気持のいい3反3畝の田んぼが広がっています。お米を作り始めてから7年。仲間やご近所のプロの方が見にきては、稲作り談義に花を咲かせました。土作りや水の管理や肥料のやり方などは、十人十色のやり方があり(7月に田植えする人も!)、そのどれもが正しいと言えます。「けっきょく自分が責任持つのだから、好きな方法をやればいい」という大らかな空気が新鮮でした。チャレンジ精神が湧き、不耕起や直播き区分では毎年やり方を変えて挑戦しましたが、予想以上にうまくいってびっくり。でもある時カブトガニやホウネンエビを放したら、あっという間にアイガモに食べられてびっくり、という失敗も。

 そのアイガモ農法は、3年間試みました。大阪からトラックで運ばれてきた40羽の雛を、朝霧の自宅で十日間ほど育てるのですが、日課の水浴びや日光浴を眺めているだけで、幸福な気持になってきます。温度管理や箱の掃除などに追われて寝る暇もないのですが、成長度合いも個体差があり、とにかく面白い。「ジャイアン」「クロクロ」「ピッコリーナ」など、特徴のある子からぽんぽんと名前を付け、自分で自分の首を絞めていきました(可愛くて食べられない)。そして何羽か哀しい運命になったものの、8月末のカモ出しまでほとんど死ななかったのは、田んぼ中に「安全光線」を放っていたからでしょう(オーラの田んぼ!?)。今だから言えますが、「イタチさん、鷹さん、カラスさん、蛇さん。どうかこの田んぼのアイガモを狙わないでね。8月末まで契約を!」と勝手に天敵達に話しかけ、安全の幕で包まれるイメージを持ち、毎日その場を去りました。結果は電気柵でもないのに大成功。などと書くと怪しまれそうですが、実は凝り性なので、徹底的に網とテグスを張り巡らしたからでした。1年目、”私が鳥だったら侵入する”と思うところを埋めていったら20センチ間隔になってしまったので、翌年は市販の鳥避けネットで覆うことにしました。柵も低いと歩きにくいので高くして、更につっかえ棒で天井を上げると、「わお〜っ!」。まるで夕陽に染まった砂丘のごとくオレンジ色に輝き、それは見事な光景でした。

 「一日中でも作業していたいなあ」。兼業なのでそうもいかないのですが、気持はいつも田んぼでした。植物は話しかけたり見つめられたりするほど元気に育つと言われますが、アイガモたちはその大切な役割を担ってくれていました。そして手伝ってくれる大勢の仲間の視線と掛け声と作業のお陰で、我が『ありが稲(とう)』は、毎年見事に実ってくれました。でも初年度、無農薬で丹誠込めて作ったお米をすべて玄米にして出荷という失敗が発生。そう、翌年の種籾を残すことを忘れてしまったのです(真っ青!)。翌年は種類を変えて一からやり直しでしたが、この時勧められて黒米も作ることになりました。これは実に衝撃的な運命の出会いでした。黒米はとにかく逞しく、どっしりゆっくり育つので、その様を眺めているだけで、こちらまで肝が据わってきます。「こういう風に子供たちが育ったらいいのになあ」「マニュアルじゃなくて、自然界と自分の方程式で決めればいいんだよねえ」。お米作りにはたくさんの学びがありますが、それは私が砂漠のラリーで得たものと酷似していました。「参ったな」が毎日起き、知恵と労力でそれを乗り越えて行かねばならぬこと。繰り広げられる舞台が大自然なので、厳しくも美しいこと。一人では不可能でも、マンパワーで乗り越えられること。達成感が半端でなく、かつ毎日ぐっすり眠れること。ラリーで大切なのは、「可能性を信じ、真剣かつ遊びごころを持って臨むこと」でした。農作業に違和感がなかったのは、きっとラリーをやっていたからでしょう。

 すぐに黒米パワーに魅せられました私でしたが、緑米や赤米とも巡り会いました。かつての女性ライダー仲間で稲作に目覚めた人がいて戴いたり、仕事先で戴いたりと、あちらこちらから集まってきたのです。3年目には7種類の稲(レインボー米!)が風に揺られていました。実は刈り取る時期がマチマチだし、入り組んで育つところもあって大変なのですが、色とりどりの田んぼは絵画そのもの。これほど古代米に入れ込んでしまったのは、やはり私が根っからの食いしん坊だからでしょう。黒米を加えて土鍋で炊くと、一人で二合はぺろり。その美味しさにぶっ飛びます。作業はけっして楽ではないのに、手伝ってくれる仲間から聞こえてくるのも、「楽しい!」と「美味しい!」という言葉ばかり。「ヒエがあるからこうしてみんなと一緒にわいわい言いながら作業ができるんだね。ヒエさんありがとう」と呟いている友人の声が聞こえた時には、じ〜ん。そして”人は人の縁で生きていること”を確信したのです。
 籾がら除去の手作業がある黒米の出荷も然り。数人ほどで机を囲み、四方山話をしながら延々と選別するのですが、一昨年からパック詰め部分を機械化したので、大分行程が楽になりました。「な〜んだ。楽しみにしていたのに」と言われて、こちらが驚きました。カケもなく真っ黒な極上品を十・作ろうと思うと、一人で一週間ほどかかってしまう黒米出荷作業。それを楽しいと言ってくれる仲間がいることこそが”宝”でしょう。そして、「黒米を入れたら、ご飯が苦手だった子供が”美味しい”と言って病みつきになった」などという言葉を聞くと、もう嬉しくてたまりません。生産者冥利です。

 とはいえ自然相手なので、頭を抱えることも多々ありました。ここ最近は台風のルートが変わり、我が富士宮市も直撃されることが多くなりました。せっかく天日干しにした稲が、一瞬にして倒れてしまった時には涙・・・。正確には”涙が出る暇もなく起こしまくる”でしたが、これもまた学びです。情報を集め、勘を生かし、方法を変え、ひたすら臨むのみ。困難になるとなぜか俄然燃えだすのも、ラリーストだからでしょうか。

 そしてこの時、稲架の材質を古来の方法に変えてみたら倒れなかったので、「昔の知恵はハンパじゃない」と感心し、さっそく兵庫の納屋で眠っていたという唐箕と足踏み脱穀機を譲ってもらいました。稲を片手にみんなで試してみると、実に愉快。次々と人が集まってくるし、経験がある年輩者が難なくこなしたり、子供達が上手かったりで、始終歓声と笑顔が絶えません。燃料に乏しい世界中の田畑では今も現役で使われているのこれらの器具ですが、応用が利き、壊れても修理が簡単に出来るので、「ロハス」や「スローライフ」の真髄も簡単に教えてくれます。便利な最新鋭の農具は人を助けます。だからこそ原理原則を教えてくれるレトロなこれらも同時に使いこなせば(イベントなどで?)怖いモノ無し。GPSも持つけれど、アナログのコンパスと体内コンパスは必須のラリーも然り。我が家の納屋には、いつの間にか中古の田植機やハーベスターや一条刈りなどの農機具が所狭しと並んでいます。お米の冷蔵庫は一番の宝の山(蔵!)ですが、新品の籾摺り機や石抜き器や脱穀機は、バイクに代わる「マイマシン」となりました。そして、それらに混じって木製の古びた唐箕と足踏み脱穀機が置いてあるのは、なかなか風情があるものです。

 さて、我が「富士山麓アイガモ農法の会」の仲間たちは十数年ほど前から毎年11月23日に「感謝祭」を行ってきました。「収穫祭」ではなく、あえてアイガモに感謝を込めた「感謝祭」。安全で安心な食を考える催しであり、プロアマ問わず、近県からもオーガニックな食と空間を求めて、たくさんの人が集まってきます。お洒落なのは、会場が田んぼということ。その面白さにはまった私は、フリーマーケットと黒米商品担当。出店する人は「ウチのはこういう農法でここが凄い!」ということを看板に書いてPRするのですが、やってくる人の目も舌もかなりこえていて、緊張感もたっぷり。これからの地球はどうなっていくのか、そして私たちの選ぶべき方向は?と真剣に考えていかねばならない時だけに、食糧の輪が広がっていくのは、とても意味のある嬉しいことです。昨年はアフリカ太鼓のジャンベ隊の演奏にのって、大人も子供も稲藁を振り回して踊っていました。中には、楽しさのあまり涙を流している人も。そう、今一番興味のあることは、なぜ人は”結”なのかということ。脳科学研究者の松本元氏の著書にこんなことが書かれていました。「生まれたばかりの赤ちゃんを、水・食べ物・空気など生理的欲求を満たす環境を作ってあげても、言葉を掛けるなど関わり合うことを一切しないと、その赤ちゃんはすべて死んでしまう」。人は人との関係がないと機能が発達せず、生きられない生物なのです。農作業を手伝ったり、感謝祭で気づくのは、まさにそこに流れる人と人のつながり。心を込めて育てた食べ物は、それを食する人の正しい活力となります。そして心を込めた自分も、人によってまた満たされます。仲間とわいわい言いながら育てたものは、食べ物だったのか、縁だったのか。

 こうして6年間に渡ってチャレンジ精神と好奇心でお米作りをしてきた私ですが、今年は一休み。寂しいけれど、近々仲間と一緒に更に大きな田んぼを借りて継続的な農業体制でお米作りをしたいので、その準備に入ります。”命の根っ子”という意味があるイネは、まさに師匠。これからもずっと関わり合い、少しでも成長できたらなあと思っています。見守ってくださったみなさんに心から感謝しつつ、「また田んぼで逢いましょう♪」。

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