産経新聞 平成15年(2003年)9月11日 木曜日 12版 16頁
ゆったり暮らせば 第23回
〜自然との共生〜
挑むのではなく一緒に唱うもの
畑いじりの楽しさを覚えてしまった私は、さらに何かをいじりたくて、ムラムラしていました。そしていつもの散歩道でその対象物を見つけました。ツタです。我が家の回りには低木がわんさかありますが、荒れた所はまさに宝の山。ハサミやナタを持って、片っ端からからみついたツタや茨を除去していきました。一日、徹底的に取り払う木が二〜三本。まんべんなく取り払う木が数十本。たった五分しか時間がなくても、雨や嵐でも、散歩がてらの裏山歩きは二年ほど続きました。高いところを払えば木片が目に刺さり、茨はどんなに慎重にやっても身体が血だらけになります。それでも必死になって取り払った後現れた木々は、「うー、気持ちいい!」と深呼吸しているようでした。
さて大小何百本という木に向かっているうちに、あることに気づきました。ナタで払おうとすると、ある時は「うれしい」と反応があり、ある時は「止めて!」と断られるのです。見た目を考えて剪定しようとしているのは私の都合であり、肝心の生物たちの意見を聞いていなかったことを恥じました。ツタを払った後に、そこが快適な鳥たちの巣であったことや、世代交代の最中だったこと(ツタを外した途端に老木が倒壊!)を知り、がくぜんとすることも・・・。いくつかの「ご免なしゃい」を繰り返した後、切る前に声を感じるようになりました。たぶん「黙々の作業」は「無我の境地」の入り口なのでしょう。
仕事の合間ではあるものの、畑に向かい、木に向かい、ゴミを拾うという毎日は、そのまま自然との共生に繋がっていきました。朝霧に来てからすっかり病気が消えた私は、今度は「パリ・ダカールラリー」に出たいとムラムラ。半年の準備を経て五年ぶりにバイク出場した平成九(一九九七)年、初めてパリダカを完走することが出来ました。一九八九年、一九九一年にリタイアした時の”若くて体力あるけれど不安な私”は何処にもいません。苦しさよりも、「ただ自然と一体になって走ること」に夢中になっている三十九歳の私がいました。あんなに怖かった大砂丘や追われる時間の壁も楽しく、アフリカなのになんだか朝霧みたい。地平線にある岩や木々が拍手をしてくれる人垣に見え、満天の星は心の道しるべとなりました。
ワイルドな庭師行の中から見つけた「自然は挑むものではなく、一緒に唱うもの」という真実は、いまだに変わることなく私の中にあります。朝霧に来てから出る競技すべてリタイアがないのも、本来リタイアという概念が自然界の中にはないからでしょう。あるのはただ、生かし生かされ「永遠に廻る」完璧な魂のみ。それにしても、もし土をいじってなかったら・・・まだ完走してなかったかも?
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3度目の挑戦で完走したパリ・ダカールラリーのゴール。「アフリカの砂と朝霧の土は同じだった」と山村さん=1997年、セネガル・ダカールの海岸
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