産経新聞 平成15年(2003年)7月3日 木曜日 12版 18頁
ゆったり暮らせば 第14回
〜散歩とゴミ拾い〜
「わっはっは〜!」の爽快感
ここ朝霧に来てから、「趣味は?」と聞かれると、まず「自然散策とゴミ拾い」という言葉が出るようになりました。この二つは、私の中ではとっても仲良しの関係にあります。昔から山歩きが大好きで、しかもゴミが落ちていると拾わずにはいられない性格だからです。けれど、ここまで生活の一部になるとは思いませんでした。
最初のひと拾いは、愛犬「きゅう」との散歩中でした。遊んでいるのを眺めていると、その横で咲き誇るさまざまな野草たちに気がつきます。可憐〜♪ けれどもその横に、必ずゴミの花も咲いているのです。許せ〜ん! 条件反射のように手が伸びますが、それを拾い終わらぬうちに、また別のゴミを発見。たばこの吸い殻、空き缶、フィルムのケース、お弁当の空箱・・・気がつくと、抱えきれないほどのブツを抱えていました。そのうち大型のゴミ袋をいくつも持っていくようになりましたが、十分歩けば片手がふさがり、三十分で両手、そして一時間もすればゴミを置いて車で回収するという具合です。大物を拾ってしまい、しかもそれが清掃センターでも引き取ってくれない時は、有料で処分業者に持って行くことに。まったく哀しい性です。もちろん地元の人や行政の手で、定期的にゴミ拾いが行われているのですが、ここは東京から近い観光地。何千、何万という数がなせる技ですから追いつかないのが現状です。
それにしても、雨で膨れ上がり重量アップした漫画本を拾い上げたとき、せっかく回収したのに袋が破れてゴミがこぼれ落ちたとき、「アタシ、何してるんだろう」と思わなくもありません。が、やはりゴミ拾いは快感です。少しずつなくなり、とうとう散歩の時にひとつも発見できなかったときの爽快感ときたら、「わっはっは〜!」です。ここまで来たら、捨てていく人も激減しました。「何人たりともアタシの散歩道にゴミを捨てるべからず」という気迫が漂っているのかもしれません。
実はゴミ拾いは、学びの宝庫でした。ラリーで砂漠を進むときやお遍路しているときに気づく事となんら変わりがないどころか、むしろ”自他を知る近道”なのかもしれません。なにしろ身体はきつい! イバラの向こうに大物を発見したとき、血だらけになろうとも、拾わないという選択はできません。外出の時、新たに置かれたゴミを見過ごして通り過ぎるわけにもいきません。こちらの都合ではなく、あちらの都合でそれはやってくるのです。暇だから拾うのではなく、そんなことすら関係なく、ただひたすらやることが大切に思えてきました。
捨て人への嫌悪感も、ある日なくなり、楽しくなります。ゴミから世相を感じたり、人間とモノの行方を案じたりしながら、ただひたすら「無」になっていく快感。そして誰が見ているわけではないけれど、大地は喜んでくれているような気がします。
今日も元気だ! ゴミは何処だあ〜っ!
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ごみ袋を手にさっそうと草原を歩き回る山村さん。散歩が終わるころには袋は満タンになってしまう=静岡県富士宮市の自宅付近。
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