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人生には、いろんな節目があります。43歳の春、私の心はとても静かでした。『リ・エコ』のホームページの中では、2000年の最後にその年の離婚について書いたのですが、駆け足で乗り切った半年後に、身体がボロボロになってしまったのです。反対に、フレンチポリネシアやネパールやアラスカの旅は、充分過ぎるほどに、心を満たしてくれました。2001年早々に2人のスタッフを得たことは、すべてのバランスをとるために必要不可欠だったような気がします(人間になれた!)。最後のあたりで、そんなことを脚色することなく素直に文章に出来たのが、このアエラの臨時増刊『LIVE』でした。「どこに住んでも誰と暮らしても」というテーマもぴったり。実はこの写真を撮影したのは、農家としてアイガモ農法を始めて最初の籾撒きの日で、すべてが新たな人生のスタートに思えた記念すべき2001年の春でした。 (2001/12/29) ![]() 臨時増刊アエラ『LIVE』No.26 2001/6/15号 タイトル「ここは、いるだけで元気になる」 写真/山田周生 新緑の草原にうっすらと霧がかかり、あちらこちらからキジやシギの鳴き声が聞こえてきます。今日も穏やかな時間が流れています。枯れることのない「至福感」。求めていたのは、これだったのかもしれません。 いろんな意味で、三十代前半はいちばん悩み多き時期でした。これからどういう生き方をしていくのか、アレルギーなど抱えている幾つもの病気とどうつきあっていくのか、子供を産むのか産まないのか・・・。悩みが頂点に達した37歳の時、「ああ〜っ、やっぱり自然に囲まれて暮らしたい!」と奮起し、その瞬間から場所探しが始まりました。私のライフワークでもある『パリ・ダカール』などの海外ラリーに出場している選手たちの殆どが、いわゆる田舎暮らしをしているということも、背中を押しました。個性的な自然暮らしをしているイラストレーターの遠藤ケイさんや、上条恒彦さんたちの生活を垣間見たことも大きかったかもしれません。 最初に決めた条件は、「十万円以内の賃貸」「バイクや車が十台は置けて、整備できて、乗れるところ」「自然豊かなところ」「東京から二時間以内」ということでした。ラリーを続けていると、すぐに車両と遊べる環境は必須です。そして夜がキチンと暗くなることも大切なことでした。機械だけでなく、心のGPSを頼りに走り続ける砂漠のラリーでは、直感や経験がとても大切だからです。
今でも思うのですが、もし初めにこの場所に来ていたら、見逃していたどころか、問題外だったかもしれません。なにしろ、四年ほど人が住んでいなかったので、酪農関係者が住んでいたという母屋の屋根は落ち、敷地は背丈ほどもある雑草に覆われていた廃墟でした。おそらく探した半年間というのは、試されていたのだと思います。家探しは、まさに「自分探し」です。私たちがどういう意志で、何をしたいのか、幾度も課題を突き付けられました。具体的なビジョンと言うよりも、初めに頭にあったのは、知人たちのしゃば〜んとしたログハウスや暮らしぶりでした。けれど、次第に自分の生き方にあった自分らしいカタチでなければ全く意味のないことに気付いたのです。大切なのは、条件よりも「そこにいるだけで元気になること」なのだということも分かってきました。その過程があったので、この土地に立った時、すぐに「ここだ!」と感じたのです。五感ではなく、第六感でした。ちなみにその時は曇りで、富士山も広大な草原もまったく見えてませんでした。 お隣さんまで一キロもある朝霧高原の酪農跡地。約一千坪を、地元の開拓農協から賃貸で借りています。周囲は地平線まで続く借景の大草原。庭には、牛舎も、バンカーサイロも、池もあります。ど〜んとそびえる富士山の向かいには、二千メートルの山塊が連なり、毎日荘厳な夕景を披露してくれます。掲げていた条件をクリアしたどころか、それ以上に素晴らしいところでした。 キャンプ場や酪農家の方たちにお世話になっての入植でしたが、自分たちで大幅な改築をして住み始めてからも、頻繁に交流があります。なにしろ、冬場はマイナス十五度平均という自然の厳しいところなので、助け合わない方が不自然かもしれません。町内会費はちょっと高目だけど、共同作業は免除という事業主扱い住民として、スタートしました。公私ともども地元での関係はどんどん増え、この六年間ですっかり富士山麓人になったような気がします。 たまたまここ朝霧だったのですが、私にとっては、なくてはならない出逢いであり、山のように変化がありました。とりわけ自然の影響は凄く、あれほど都会で悩んでいたアレルギーは、幾日もたたないうちに、すっかり消え去ってしまいました。すぐに出会った迷い犬(昨年夏に行方不明)を飼い始め、頻繁に散歩をしたお陰です。農道を行くと、そこには小さくとも完璧な宇宙が広がっていました。草花に、小動物に、風に、太陽に、夜空に、私は恋をし、魅入り、感動し、そして、そこにある『自然との調和』や『生命の神秘』をとことん再確認したのでした。無駄なものはひとつもないことも、あるがままで幸せでいられることも、すべてはラリーへ臨む精神に生かされました。体調が思わしくなくて五年も休んでいたラリーですが、再び出場すると、自然体で笑って完走することが出来ました。 大地のエネルギーを知ってしまった私が、三年目から夢中になったのが、自然農(無農薬無化学肥料)の野菜づくりです。ハーブを含むと、数十種類ほど畑に植え、毎日語りかけながら育てました。そこから得たものは、本を何十冊書いても足りないかもしれません。魂と身体と精神のバランスとよく言いますが、四十代を目前にして、やっと取れてきたのでした。
一番大きな変化は、つれあいとの別離れでしょうか。東京のマンションで七年、ここ朝霧で五年暮らしました。ここでの生活は、開拓作業から始まって、草刈り、重機での雪かき、パリダカ出場車両の製作、ライフラインの点検などが日常であり、楽しんで作った廃材利用の露天風呂製作や、トライアルセクション作り、ガレージ製作などを考えると、逞しい男の腕は必須です。お互いの得意技を生かして、どんな大変なことも喜々として乗り越えたし、愛犬と愛猫との家族四人(?)暮らしはいとおしい限りでしたが、変化して行くものは止められません。昨年夏につれあいは旅立ち、私が一人残りました。なぜか不安はありませんでした。圧倒的な自然があったから、そしていろんな角度から手を差し延べてくれる知人たちがいたからです。 けれど、物理的に会社とプライベートの作業は増える一方です。半年たった頃、過労で突然倒れた私は、素直に一人の限界を感じ、今年一月に一人(以前東京でバイクショップをやっていた時に番頭だった女性で、たまたま地元に住んでいた二児の母)、三月に一人(重機扱いのプロにして、パソコン、料理、車とバイクが趣味の二十四歳の青年。たまたま一番お世話になっている酪農家の息子)、手伝いに来てもらうことにしました。雇っているというより、教えてもらうことが多いのですが、こんなに楽になり、しかも楽しいとはと、驚いています。お隣の堆肥工場責任者は、何でも相談できる家族以上の信頼おける仲間だし、とにかく田舎暮らしこそ、人と人の縁を築く場所なのだなあと、つくづく考えさせられます。そして、来た時から思っていたのですが、こんなにパワーのあるところをもっと皆に味わってもらえればなあと、いろいろ頭を巡らせています。居るだけで誰でも癒される空間を、いつか作りたいのです。そう、地球サイズの家族作りをしたいのかもしれません。 もうひとつ、人の縁で始まった嬉しい世界があります。たまたま誘われて昨年始めたアイガモ農法の米作りですが、その実りに大感動した私は、今年、もっと本格的にやることを決心。友人やその子供たち、そしてホームページを見て来てくれた人たちと苗を植えることにしました。田圃四反強、畑一反を借りれたので、農家になるための申請もしました。兼業農家を目指して、そしてさらに自然が学べる世界(ラリー、アドベンチャーレース、旅)へ向かうために、ここでよいエネルギーの流れを作っておければなと思っています。
自分らしさに妥協をせず、直感で選べば、必ず絶妙のタイミングで住む場所は見つかります。そして誰と住むかは、その土地が選んでくれるような気がします。生きる場所探し、まずその第一歩は、とにかくまず決心をして動き出すことです。こだわりを捨て、勇気をふるい、手放して、損得でなく、そしていつも愛を幹に置くこと。恐怖や不安に感じた時こそ踊るこころで向かうこと。実はこれ、私がラリーの時に心掛けている言葉たちです。ラリーも家探しも、一番大切なのは「遊びごころ」でしょうか。
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