産経新聞 平成15年(2003年)5月1日 木曜日 13版 16頁
『ゆったり暮らせば』 第5回 〜大きな勘違い〜
家は自分の夢を形にしたもの
家探しを決心する前、私は自分改革がしたかったのでしょう。無性に旅を望んでいました。なぜかインドと思いたち、三年くらいの放浪の旅を企てていたのです。けれど家探しという旅を始めてみると、それはインド放浪にも匹敵するような大冒険であり、意味のある事柄でした。
朝霧を中心に探し初めてから一月後、「牧草地の真ん中に富士山をどか〜んと望むログハウスがあって、売りに出ているらしい」といううわさを聞き、訪ねてみます。三六〇度余計なものがまったくないという信じがたい絶景に大きなフィンランド製のログハウスが建ち、独立した風呂、ガレージ、そのすべてがおしゃれで気品漂うのにとっても暖かです。千二百坪の土地には野性味あふれたハーブガーデンが広がり、視界には三`彼方の田貫湖もきらきら輝いています。「やったァ! 求めていたのは正にここよ! 今までの苦労はここにたどり着くためだったのね」。ここならどんな友人が来ても「あなたらしい」と感動してくれるに違いありません。というか・・・出来過ぎ?
案の定、喜びはつかの間でした。売りに出てなかったのです。でも、家主のTさんは「ここはお金には換えられない」と言いつつ、親切に話しをしてくれました。ダンプ百台もの土を運んで整地したこと。毎週東京から通っては広い庭を手入れをしていること。庭にある天然記念物の縄状溶岩は、その開拓作業の時に発見したこと・・・。
そしてここにきて私は、家探しの大きな勘違いに気づきます。そう、家とは自分の夢を形にしたものであって、作品はその人のもの。このすてきな家と庭は、Tさんが汗を流し手間暇かけて自分のイメージを作り上げたもので、私のものではないのです。簡単に手に入る「お菓子の家」なんてありゃしない! ここでもゴミ拾い作業から始まったことを聞き、ゴミの山をお菓子の家にする力の大切さを思うばかりの私でした。そして、勝手に喜ぶ「希望」と勝手に落ち込む「絶望」のバウムクーヘンの中から、またひとつの確信を得ます。
私が探しているのは、まだ形になっていないもの。だから、目や情報だけに頼っていては駄目なのだと。五感は大切だけれども、もっと別の感覚(第六感以上のモノ?)で探すべきで、それはよりピュアになることのように思えました。
なぜ数年間も病気に悩まされていたのかも分かってきます。白斑(はくはん)症が顔だけに出ていたのは、心が大切と言いながらも、私の判断基準が表面上のぺらぺらだったことへの警告に思えました。目を閉じても感じる”何か”を見なければアカン。そして私が自然の中に引っ越したかった最大の理由は「元気になりたかったこと」であり、他の何を捨ててもそれを望んでいた自分に気づきます。
さて、Tさんを訪ねる時にたまたま話をしたお隣の酪農家がいました。Sさん、彼こそが大切な二人目のキーマンでした。
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すべてを包み込むような富士山を望みながら、気ままな散歩をするのは最高の幸せという。
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