vol.32 2003年 6月 9日  『ゆったり暮らせば』 第4回

産経新聞 平成15年(2003年)4月24日 木曜日 12版 18頁
『ゆったり暮らせば』 第4回 〜2人のキーマン〜
情熱と不屈の精神でゴールへ


 縁とは不思議なものです。我が家が見つかるためのキーマンは二人いたのですが、その一人、西富士でオートキャンプ場を経営者するKさんとは、以前仕事で会っただけの仲でした。朝霧高原の空の広がりが気に入った私は、笑顔と包容力を感じる人柄を思い出してすぐに電話をします。
「とりあえず見に来たらどうですか。いいところですよ。でも・・・」Kさんは、こう切り出しました。「いやー、私はキャンプ場の横の別荘に住んでいるんですが、ある日久しぶりに帰ったら、緑なんですよね。あれ〜、いつ畳を絨毯に変えたっけ? と思ったんですけれど、それ、一面のカビだったんですよね。あ〜はっは!」「梅雨の時期は、畳を歩くとべっとり足跡がつくんですよ」。なるほど、だから朝霧高原なんだと感心しつつ、これはショックでした。なにしろ私は布団干しが趣味の”乾燥魔”。
 でもこんな話を最初にしてくれたことに信頼感を抱いた私は、さっそくKさんを尋ねます。シーズン直前の六月中旬だったこともあり、あちこち案内してくれました。地元の同業者や事情通の酒屋さんも紹介して下さり、どんどん候補地があがります。別荘地だけでなく、まだ手のつけられていない山林や民家へと広がりました。それらのほとんどは、不動産屋さんには来ない物件ですから人脈なくしてはあり得ません。またこの朝霧高原は調整区域となった昭和四十七年までに建てられた既存の家は住めるけれど、新たに建てるのは難しいという現状も分かりました。持ち主も見放すほど廃墟化した別荘を借りて改築、という方向がよさそうですが、相変わらず見てはガックリが繰り返されました。
 実はこのころ、私たちのお尻には火がついていました。二月に宣言してから延ばしに延ばしたマンションの退出日が七月末。見つからないことを考えて、六月初めには大方の家財を貸しコンテナに入れてしまったのです。残ったのは書類や衣類など段ボール六箱だけ。なんだ、それでも生きていけるのかというのもびっくりでしたが、とにかく「私たちには時間がないのよ!」状態です。焦ります。その焦りを感じてくれたのか、本当に信じられないくらい面倒を見てくれたKさん。後で聞いたら「気迫に押された」とか。
 そのKさんの話には、たくさんのヒントがありました。東京で音響関係のバリバリサラリーマンだったKさんは、趣味のオートキャンプが高じて十五年前、ここにやって来ました。が、当時はお手本がありません。知り合った地元のおじさんと二人で一年の月日をかけて山林のゴミ拾いから始まる開墾をしたそうです。情熱や不屈の精神がゴールに通じることを痛感。
 さて元夫と私は、Kさんからバンガローを拝借したり野営しながらぐるぐる回っているうちに、この朝霧がどんどん好きになっていきました。濃霧も、なんだかラリーの砂煙に似ているようで? 気になりません。そして朝霧での家探しが一月近くなったころ、偶然が重なって次なるキーマンへの出逢いが生まれます。

敷地内にある貯水タンクの上に上がると、広大な大地を吹き抜ける風と空が間近に感じられるという。  
 


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