vol.24 2002年 11月 9日  自転車・旅日記

 久々の旅日記です。残念ながら廃刊となってしまいましたが、大好きな「シンラ」に初めて書くとあって、嬉しくてたまりませんでした。サイクリングも楽しかったし、スタッフも気持ちのよい人だったし、とにかく楽しい取材旅行でした。温泉もよかったしね♪写真がないので、ちょっと昔ですがサイクリングのものを載せてみました。友人の大関くん(後ろがそうです)と一緒に「ツールド能登」に出場した時のものです。1991年のことで、400キロを4日間かけて走り抜くサイクリングマラソンですが、これもニコニコの楽しさでした。自転車の旅もまた趣が違ってよいよね!

『シンラ』新潮社   たぶん1996年頃だと・・・。

 夏の終わりと秋の始まりが、絶妙のハーモニーを奏でていた。一年のうちで最も気持ちのいい日に自転車で走れるなんて、ツイている。形容しがたい暑さが続いていたことが、嘘のようである。標高二一七二メ−トルの渋峠で、私は幾度もでっかい深呼吸をした。
 午前六時二十分、トランスポーターからロードレーサーを降ろし、ちょっぴり肌寒いなかをスタート。静寂が荒涼とした山肌を包んでいる。チューブラタイヤのゴムとアスファルトの触れる音だけが、ニュッニュッと響き渡る。観光客はいないに等しく、次第に、ここが何処だか分からなくなってくる。
 志賀草津高原ルートから北軽井沢経由で中軽井沢までという本日のメニューは編集部の提案だ。何度もこの地を訪れている私は、「ハッハ、任せてくださいよ。あそこは庭みたいなもんですから」と吹きまくった。しかし実際来てみると、様子が違う。こんな風景、全然知らないではないか。単なるホラ吹きオンナと化した私であった。かつてこの辺りには、連休になるとバイクツーリングに来ていたのだが、いつも百台ほどの仲間と一緒だったので、景色を見る余裕がなかったのかもしれない。それに記憶にあるこのルートは、常に大渋滞だった。同じ二輪でも、今回まのあたりにする景色はずいぶん違う。本当に言葉を失うほど壮大で、異国を思わせる風景だ。
 最近よく思うことがある。年輪を重ねるということは、今まで気づかなかったことを感じられるようになることではないか、と。簡単に言えば、ジジババになればなるほど、敏感に、かつ緻密になるということだ。三十代後半になって、悔し紛れにそう思ったのかもしれないが、いろんなコトがよく目につくし、耳に入ってくるのである。りんどうの青さがいとおしく、山肌にしがみつくように生息している草たちと会話をしたくなってくる。自転車の旅なら、よけい吸収力がいいはずだ。

 少し走ったところで、静かなる訪問者たちと出会った。道沿いの空き地でひっそりテントを張っているライダー。オフロードバイクが忠犬のごとく御主人を守っていたが、どんな夢を見たのだろう。三十リッターはありそうなリュックを背負って、地獄の登りを克服してきたサイクリストも見かけた。同じサイクリストだが、私はバナナしか持っていないので、両手を合わせて拝んでしまう。最も大変そうだったのは、ノルディックスキー選手の夏季合宿光景だった。ローラーのついた板を履いた大学生たちが、汗まみれになりながら黙々と駆け登っている姿には、思わず胸が熱くなる。さあ、私も踏ん張らねば!
 ・・・と思ったものの、延々と続くのは、快適な下りばかり。たまに止まって景色浴をしながら余裕のライディングで、こんなに気持ちよくてどうしようという感じだ。変速機は頻繁に使わないし、ブレーキングも楽々のコーナーが多い。ふと、かつてこの土地を訪れた時のことを思い出した。スキー場でのアルバイト、乳緑色の湯釜の硫黄水を調子にのって飲んでしまった修学旅行。いずれも色や匂いで覚えている。匂いと言えば、今まで全然意識しなかった殺生河原が面白かった。硫黄のガスが吹き出しているため、駐停車禁止と書かれた看板がいっぱい立て掛けられているのだが、車やバイクと違って自転車では防ぐ術もなく、すっぽり硫黄漬けとなってしまう。ジャック・マイヨールほどの呼吸停止が要りそうな緊張区間だった。

 二十キロほどで草津へ辿り着き、自称温泉マニアの私は、西の河原の露天風呂へと走る。ここの硫黄泉の効能は、筋肉痛、関節痛、打ち身、くじき、冷え性、疲労回復と嬉しいまでにサイクリスト向き。まだ疲労しちゃないが、入ってしまう。以前、見知らぬおばさまたちとキャアキャア言いながら、記念撮影した楽しい思い出がある。残念ながら最近『撮影禁止』になったのだが、許可をいただいて細々撮ろうとしていたら、やっぱり元気な観光客のおばさまたちが参加してくださった。私のタオルを危うく剥ぎとられるところだったけど、温泉におけるおばさまのパワーにはつくづく敬服である。
 昼食と温泉まんじゅうで腹ごしらえをして、草津道路を下り、大津へ出た。「こんなに下りが多いと登りが欲しくなっちゃうなあ」と強気な発言をしていた私であったが、ここから峰の茶屋までの二十五キロは、ジワジワと効いてくるボディブローのような登りの坂道のみで、なかなか忘れ難い道だった。観光地では、午前九時を回るとどっと増える四輪車のために、自転車は肩身の狭い思いをする。どんなに快適な道でも、よほど広くない限り、後ろを気にしつつ走ることになるのが日本の実情だ。自分の風切り音のため、後続の気配を感じることは、困難なのである。志賀草津高原ルートよりずっと狭い一四六号だったので、覚悟して入ったものの、予想より車の数は少なく、途中路肩も広くなったので、意外に走りやすかった。しかし、殆ど下りのない登りというのは、キツイ。初心者であったにもかかわらず、四日間で四百キロを走る『ツールド能登』や、百キロの『サイクルフェスタin栃木』などに参加した時は、登りと下りのバランスが絶妙で、「ヒィ〜、苦しい」ってところで、ちゃんと下りが現れるように設定されていた。地獄で仏。どんなに苦しくてもこぎ続けていれば救われるので、そのとき私は、「自転車やってる人に、自殺者はいない!」と確信した。沙漠の果てまで行かなくても、生きている実感を簡単に掴めることに驚嘆したものだった。

 しかし、下りはなかなかやって来なかった。初め聞こえていた鳥の囁き、近くの農家の人の話し声は、いつの間にか失せていた。清流の流れにも、立ち止まる余裕がない。「あのカーブを曲がったら下りかなあ」「う〜ん、もうちょっとかなあ」一緒に走り初めた編集部のサトウ氏の返事は、ルートを知っているためか重い。景色を見られない黙々走行も結構楽しいじゃないかと思うのだが、元気よくピースサインを送ってくれる対向車線のツーリングライダーに、返事が返せない。情けない。路肩のでこぼこにパワーを食われないことだけを意識して、踏む。ひたすらペダルを踏む。さてどのくらいたった時だろう。呼吸も苦しくなく、足が勝手に動いていることに、気がついた。『無』の境地。久々のライディングハイだ。そして、このまま何処までも走り続けてヤルゾゥ!と思ったその時、後光に輝く下り道が現れたのだった。

 現地直売で野菜やくだものを買いまくったし、二キロ痩せたし、壮大な景色は見られたし、満足感に満たされながら、帰りの車の中で私は、ぐっすりと眠りこけた。夢のなかの私は、もちろんペダルをシャカシャカと踏んでいた。      (全走行六十三キロ)




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