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1998年ころ、株式会社スリーボンドの広報誌「URC」に、富士山麓朝霧高原便り「山村レイコの自然にヤッホー♪」というエッセイを連載していました。いろんなことを自由に書いてよいと言うので、いつもノリノリで原稿を書いていました。 この号は、ちょうどお正月のことが載っており、20代の私がよく分かる文章だったので思わず選んだのはよいのですが、掲載月が見つけられず、う〜ん、スミマセン。あとで載せますね。 ちなみにこの時の担当だった編集会社の飯島さんと青木さんと久しぶりに逢ったのは、田植えミーティングの時。とってもとっても嬉しい再会でした。縁っていいよね。 エッセイスター第3弾
むかしむかし私の一年は、ぬくぬくコタツの上で食べる蜜柑で始まった。家族と共に過ごすひとときは、適度な新年の緊張感もあり、なかなかヨイものだった。しかし思春期になると、心は仲間や恋人など家の外へと向かっていく。大晦日からバイクで海へ向かい、ご来光を拝むというのが恒例行事になったのは、十代の終わりだった。そしてそれは、気がついたら女性ライダーだけ何十人も集まるというお祭り騒ぎにまで発展していった。女性が集まれば、そのまた何倍もの男性が集まる。多い時は数百もの人がやって来た。千葉で、茨城で、静岡で、と毎年目指す海も違えば集まる人も違うけど、とにかく妙ちくりんな日の出集団の言い出しっぺとして、私の二十代はあった。
あの厳冬の海で、いきなり泳ぎだしたライダーは、今頃何処で何をしているのだろう。新婚カップルのタンデムライダーは、まだちゃんと仲良くしているだろうか。今思えば、パソコンなどなく、雑誌の小さな囲み記事と口コミだけだったのに、なんて凄いパワーだったのだろう。寒くて二桁ものホカロンを体中に潜ませ、焚き火をしても、走って芯まで冷えた身体は、なかなか暖まらない。それなのに、愉快で心はほかほか、老若男女、みなニコニコだった。 しかしその集まりは、二十代の終わりころ、自然消滅したのだった。私が惚れた『パリ・ダカール』という名のラリー競技が、毎年元旦スタートだったからだ。日の出の舞台はアフリカの砂漠へと移っていった。サハラ砂漠を激走し(もて遊ばれ)、セネガルのダカールを目指す、驚異的な苛酷さが売り物のパリ・ダカール。バイクでの出場は三回だが、夫が出たり取材をしたりと、なんだかんだ毎年のように係わりあってきた。家族との団欒は皆無になり、友との年越しツーリングも消えた。コタツで蜜柑は刺激が足りんと飛び出したものの、いちばん好きなことが、刃物の上を歩くような危険なことだったとは。
今年の元旦も、またパリ。ベルサイユ宮殿を四輪で初めてスタートする予定である。夫が運転し、私がナビゲーターを務めるのだが、身動きままならないドライバースシートの上で衝撃を吸収するので、身体がボロボロになるよと先輩たちが忠告してくれる。苦しくなったら、もっと無防備でもっと物が無いのにへっちゃらだった、むかしの私を思い出そうと思う。ふだん過去など全く振り返ったりしないのだが、若い自分に応援してもらうというのも悪くない。言い方を変えれば、それほどキツイ競技なのだ。大地に祈り、天に祈り、一秒一秒を確実に乗り越えて十八日間、約九千キロの荒れ地をクリアしていく。それでも絶対にトラブルは起こるし、壁はやってくる。 |
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